鎌倉幕府が朝廷の支配圏であった西国に進出するきっかけとなったのが承久の乱です。鎌倉幕府を滅ぼすために立ち上がった後鳥羽上皇。そして朝敵となった鎌倉幕府。承久の乱は京都までの緒戦で鎌倉幕府側が連勝、最終決戦の地となった宇治…
「nihonshi」の記事
鎌倉幕府初代将軍・源頼朝の死因は? 事故死なのか病死なのか検証
鎌倉幕府初代将軍・源頼朝の最期はあまり知られていないのではないでしょうか。現代でも人気がある源義経、あるいは二・三代目将軍の源頼家・実朝であれば、非業の死ゆえに認知されているかもしれません。あれだけの功績を残した源頼朝で…
源平合戦の功労者・源義経は後白河法皇の策謀で頼朝に追討された
源平合戦で目覚ましい活躍をしながら、源頼朝によって奥州・平泉で追討された源義経の悲劇は、判官贔屓という言い回しとして残っています。 後白河法皇から判官の官位をもらったから、三種の神器を取り戻すことができなかったから、源…
陰陽師・安倍晴明とは? 謎だらけの出生からみえてきた人物像
陰陽師・安倍晴明の人物像は、これまでの映像作品などにより現代ではすでに完成されているのではないでしょうか。では、実際の安倍晴明とは? その謎だらけの出生からみえてきた、知られざる人物像をご紹介します。 遅咲きの陰陽師…
藤原京から平城京に遷都した本当の理由とは? 遷都からみえた藤原不比等の野望
平城京の遷都は「吉兆の地」であったためだといわれています。天武天皇・持統天皇によって造営された藤原京が機能したのはたった16年でした。ですが、近年になって藤原京遷都は政治的な思惑によるものだと指摘されています。平城京遷都…
唐招提寺の鑑真和上が命懸けで渡来したのはなぜ? 袈裟のメッセージから読み解く
(画像:唐招提寺) 唐招提寺とは「唐(当時の中国のこと)から招いた鑑真和上による私設寺院」というのが由来になっているとも言われています。中国から命懸けで渡来した鑑真和上。仏教布教に貢献したことで知られています。どうし…
番外編 一口メモ 本能寺の変の現場に明智光秀はいなかった?!
新年早々、驚きの記事が出てきた 「織田信長が配下の明智光秀に討たれた本能寺の変(1582年)を巡り、光秀が本能寺(京都市中京区)の現場に居合わせていなかったとする学説が出てきた。金沢市に現存する古文書に、光秀は本能寺から…
蘇我氏ってどこの馬の骨? 実は最古の豪族・葛城氏とつながっていたか
大化の改新で滅ぼされた蘇我氏は、赤穂浪士でいうところの吉良上野介のような、討ち取られてもしかたない、そんな悪役ポストではないでしょうか。6世紀のはじめ、突如として歴史の表舞台に登場した蘇我氏。天皇家の外戚になった蘇我稲目…
聖徳太子は実在しなかった? 厩戸王を過大評価した天武天皇が原因の非実在説
聖徳太子について昭和後期から平成前期にかけての義務教育では代々的に取り上げていました。聖徳太子=高額紙幣であったため、それだけの偉業を成し遂げたのだと認識されていたはずです。ですが平成になってから紙幣から消え去ったばかり…
蘇我入鹿暗殺は中大兄皇子・中臣鎌足ではなく黒幕・軽皇子説が浮上
これまでは大化の改新、現在では乙巳の変といわれている蘇我入鹿暗殺事件は、古代史のターニングポイントになったといえるほどのできごとでした。この蘇我入鹿暗殺事件は中大兄皇子・中臣鎌足によるものだと知られていますが、黒幕は軽皇…
邪馬台国畿内説は纒向遺跡の発掘調査で有力に! 見えてきたヤマト王権とのつながり
邪馬台国は近畿にあったのか、それとも九州にあったのかという議論には落としどころがないのが現状です。江戸時代から現在にいたるまで、古代史のロマンともいえますが、それぞれの説に決め手がありませんでした。ここに一石を投じたのが…
天照大神(アマテラス)ではなく高皇産霊尊(タカミムスヒ)が皇祖神だった? 天武天皇の神話操作疑惑を解説
天照大神(アマテラスオオミカミ)は皇祖神として信仰されてきました。ですが近年、皇祖神は高皇産霊尊(タカミムスヒ)だったという説が唱えられるようになっています。実は、タカミムスヒからアマテラスに皇祖神が変わっていたんです。…
番外編(一口メモ) 比叡山焼き討ちは実は大したことなかった?
信長の残虐さの象徴として語られる「比叡山焼き討ち」事件。実は滋賀県教育委員会がいくつか行った調査によると、これまで言われていたように比叡山の全山が派手に焼き尽くされたかどうかは今後の調査が必要でよく分かっていないとのこと…
本能寺の変の謎 ~動機と真相~ その1
ついに、日本史サイトは明智光秀のクライマックス、本能寺の変の謎に迫る。 1582年(天正10年)6月2日未明、天下布武へ向けて突き進んできた織田信長は京・本能寺において、明智光秀率いる13,000の軍勢に急襲され、4…
両属関係の真相と光秀の真意に迫る(後編)
■比叡山焼き討ち 出所 Wikipedia 両属関係の真相(前編)の続き 元亀二年(1571年)八月、朝井氏が蜂起、呼応するように近江の一向一揆、さらには比叡山延暦寺までもが信長に敵対の意思を表したため、織田信長自ら出…