■比叡山焼き討ち
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元亀二年(1571年)八月、朝井氏が蜂起、呼応するように近江の一向一揆、さらには比叡山延暦寺までもが信長に敵対の意思を表したため、織田信長自ら出陣する事態となった。
なお、この当時の一部の有力な寺院は(現代の感覚では理解し難いが)、自衛の為に軍事力を保有していた。戦国大名にとっては宗教(すなわち領民のバックアップ)と軍事力を保有している寺院は敵にも味方にもなる存在であった。
光秀は、九月、近江国雄琴の有力者・和田氏を織田方につけることに成功した。
このときの和田氏宛の手紙には、「仰木村などはぜひともなで切りにしろ。すぐに我々の思うようになる」との趣旨の一文が記されている。
通説の「常識人としての光秀」であれば待ったをかけるはずの行動であるが、また、信長が敵対する近江一向一揆・志村城などを「干殺し(ひしごろし)をなされた」と説明し、和田氏を脅迫している。
近江坂本の北方に位置する仰木は、比叡山にほど近い場所にある村である。この手紙が光秀から送られた10日後に、信長は比叡山の焼き討ちを実行しており、この事実から、光秀は信長の比叡山攻撃に呼応した動きをしていた可能性が高い。
信長の残虐性を一面を物語っているといわれる近江平定戦において、光秀が中心的な役割を果たしていたことがわかる。
元亀二年九月、比叡山焼き討ち後、光秀は信長から近江での活躍を評価され、近江国滋賀郡と比叡山領であった」京・洛中の旧山門領を与えられた。
光秀の旧比叡山領に対する支配は過酷なものであったらしく、公卿たちからの苦情を受けた正親町(おおぎまち)天皇が問題視し、将軍足利義昭へ解決を依頼している。光秀の活動拡大は、京の支配権をめぐる義昭との対立も生み出したのである。
しかし、状況は改善されず、元亀三年九月には、旧比叡山領・高野蓮養坊(たかのれんようぼう)について、公卿・吉田兼見が光秀の強引な支配を抑えるよう有力武将の細川藤孝、里村紹巴に対応させている。
この地の武将・佐竹宗実と光秀との間で、当地をめぐり対立が発生、宗実は従妹である藤孝に助けを求めたものとみられる。
最後には、宗実が、織田家の最有力家老・柴田勝家に信長への取り成しを求める事態に発展している。
温厚かつ教養人としてのイメージが強い光秀であるが、実は意外にも、ブラック光秀となった一面が表れている。
このころ光秀が義昭家臣・曽我助乗に送った書状には「義昭家臣としての先行きが見通せないので、お暇を頂き、頭を丸める許可をもらえるよう、義昭様にお取り成しください」と書かれており、このころから義昭と光秀の亀裂が生じたものと考えられる。現代の言葉で言うと、それぞれ利害の異なる主君に同時に仕える両属について、本来的に保有する利益相反の問題点が一挙に噴出したと言える状況であろう。
これまでの通説では利用価値が無くなった義昭を信長から切り捨てたとの解釈が通説であったが、近年では、信長は、義昭の意向を受けて行政文書を送付するなど、義昭との協調を重視していたことがわかってきた。驚きべきことに信長よりむしろ光秀が先に義昭を切り捨てる意思を持っていたのである。現代の用語を使うと、両属に関する利益相反の矛盾を光秀自ら発現させたと言うべきであろう。筆者の邪推の域を出ないが後の本能寺の変にしろ、実は光秀の方が信長よりも過去のしがらみに縛られない徹底的な合理主義者であるのかも知れない。
京の施政をめぐるこの衝突が、結果的に京を管轄する義昭の支配権を弱めたわけで、光秀の存在が信長・義昭間の対立の火種になったとの解釈も可能である。
元亀四年二月、義昭が信長への敵対の意思を明確にしたことが、藤孝からの知らせにより信長に伝わった。
光秀が義昭方である近江今堅田城への対応に追われる中、近江では地元の有力武将・山本対馬守、磯谷久次が義昭に呼応して反旗を翻した。義昭蜂起は光秀に大きな犠牲をもたらしたのである。
元亀四年七月、義昭は御所を出て槙島城に籠城、信長は北近江から光秀と合流し、京に入った。
ここにおよんで、ついに、織田足利の関係を取り持っていた光秀・藤孝は、ともに義昭を見限ったものと考えられる。
七月十六日、信長は槙島城を包囲、十八日に義昭は降伏し、河内へ落ち延びていった。
ここに室町幕府は滅亡した。この瞬間、義昭・信長双方に仕える者としての光秀の姿はなく、光秀は織田家の武将として正式に生きていくことになる。
ここまでみてくると、光秀の多才ぶりと一方で非情且つ果断で野心的な支配欲が垣間見られる。
通説としての「旧勢力にも通じる常識人としての光秀像」とは違った姿が浮かび上がってくる。
■フロイス日本史
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当時、日本で宣教師をしていたイエズス会ルイス・フロイスの著書「日本史」は光秀について以下のように書かれている。
「刑を処するに残酷で、独裁的であったが、己の偽装するのは抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった」
もちろん光秀は家臣・領民に慈悲深く、愛妻家であったという数々の逸話が残されており、愛される存在であったことも事実である。
また、光秀がイエズス会に否定的ことから鵜呑みにはできない。また、現在に残る歴史は勝者が書いた歴史書であることにも留意が必要であり、意図的にこのような「光秀悪玉論」に与する歴史書のみが時の為政者により残された可能性がある。
だが少なくとも相当なしたたかさを合わせ持つ人物だったのであろう。
信長もまた、自身に相通じる部分がある光秀を分身として好んで重用したのかも知れない。
両属関係とは、信長に乗り換えステップアップしたい光秀と才略に富む光秀を欲する信長両者の意思が強く反映されていた前提のもとに成立した、信長サイドに偏った関係であったといえよう。