両属関係の真相と光秀の真意に迫る(前編)

■宇佐山の戦いで織田信治を抱えて勇戦する森可成(落合芳幾作)

読者の皆さんの中で、全くそれぞれ独立した上司が二人いたらどうであろう? 正直めんどくさくはないであろうか。

斎藤道三(さいとうどうさん)、朝倉義景(あさくらよしかげ)、足利義昭、織田信長と、主君を四度変えてきた明智光秀だが、下剋上や謀反が日常化していた戦国時代では仕える人物を次から次へと変えるのは、それほど驚くべきことではなかったといえる。しかし、戦国時代においても、同時期に二人の主君に仕えた人物は稀で、極めて特殊であった。光秀はなぜ、足利義昭・織田信長の二君に仕えたのか。その背景には光秀の前半生、そして、信長とのある類似性が深く関与していた・・・前半では足利義昭と織田信長との両属関係に至るまでを解説する。

 ~光秀、義昭側近として信長と初対面。支援をとりつけ~

永禄十年(1567年)頃、光秀は織田信長と初対面する。足利義昭直臣の足軽衆の地位にあった光秀は、主君義昭の京都復帰を支援要請するため、義昭の御供衆(貴人のお供をする人)・細川藤孝(ほそかわふじたか)の下で織田信長と交渉を行った。

永禄十一年(1568年)七月、信長は要請を受諾、足利義昭は美濃に入り織田家の保護を受けた。信長はこの交渉プロセスで明智光秀の存在を意識するようになったと考えられる。この年の八月、信長から細川藤孝に宛てた書状には光秀の名前が残っている。

光秀が初めて歴史の表舞台に立った瞬間だったといえよう。

 

~両属の発端、織田家の重臣とともに京支配の大役を任され~

同年十月、信長と上洛した義昭は、室町幕府十五代将軍に就任している。光秀も細川藤孝とともに京での連歌会に参加した記録が残っており、京に入ったことがわかる。

それだけはない。光秀は京で大役を任じられている。

永禄十二年(1569年)、光秀は信長配下の重臣・村井貞勝、中川重正、木下秀吉(のちの豊臣秀吉)と協力して京支配の担当者に抜擢される。表面的には義昭の命だが、実質的には、京の真支配者である信長の意向(光秀の政才を認め、活用する)が強く働いた考えられる。織田側の錚々たる顔ぶれから、幕府側とはいえ、足軽衆にすぎなかった光秀の任命は大抜擢であったことがうかがえる。

 

~金ヶ崎にて秀吉らと殿(しんがり)に選ばれ奮戦、信長の信頼に応える~

この直後、今度は光秀の「軍才」が認められる決定的な事件があった。「金ヶ崎の退き口」である。

 元亀元年(1570年)四月、織田信長は、幕府の上洛指令に従わない朝倉義景の討伐のため、越前に入った。しかし、近江・小谷城主で妹婿の浅井長政の裏切りにより、浅井・朝倉から挟撃される危機に陥った。信長は直ちに越前撤退を決断したが、この時、光秀は、越前金ヶ崎(福井県敦賀市)において、織田家重臣・木下秀吉とともに、幕府軍(実質的には織田軍)の殿(しんがり)に抜擢された。ちなみに殿とは、後退する部隊の中で最後尾の箇所を担当する部隊のこと。撤退と敵軍の追尾を追ひ払うと言う二重の役目があり、味方の援護も受けられず最もリスクの高い部隊であると言われている。その為、武芸や人格的に優れた武将が抜擢されることが多い。

越前攻めでは、幕府軍の出兵という建前上、織田軍以外に池田勝正、松永久秀などの畿内の武将、日野輝資(ひのてるすけ)・飛鳥井雅敦(あすかいまさはる)等の公家といった織田家の家臣以外の人々も従軍していた。

有力者が多数参戦する戦さで、なぜ光秀が殿に選ばれたのは定かではないが、信長にとって自身の生死を分ける人選だったことは事実である。足利家臣にもかかわらず、信長にとって秀吉と同等の信頼があったと考えられる。光秀両属の背景には、信長の側が、光秀の能力・個性に関心を持ち、自身の配下同様に扱っていったという構図が見て取れる。

この戦いののち、秀吉が信長から恩賞を賜ったと伝わるが、光秀に関する記録はなぜか残っていない。

ただ、この戦さののち、光秀は信長から(秀吉以上に)重用されたことから推測すると、金ヶ崎の戦いにおける光秀の功は、殿軍中随一だったのではないか。記録がないのは、のちに光秀を破り天下人となった秀吉が自らの武功のみを強調した結果と考えたほうが自然である。

~義昭家臣のまま織田家最重要拠点・宇佐山城を任される(両属関係の成立)~

勢いに乗る浅井・朝倉軍は、比叡山延暦寺とも連携し、近江宇佐山城(滋賀県大津市)へ侵攻、迎撃に出た織田家武将・森可成(もりよしなり)が戦死する緊急事態となった。光秀はこのとき近江坂本に入った信長に呼応し、勝軍山城(現在の京都市左京区北白川にあった山城)に入り浅井・朝倉を待ち構えたとされる。

なお、この当時の有力な寺は現代の感覚では理解し難いが軍事力を保有しており、戦国大名にとっては宗教(すなわち領民のバックアップ)と軍事力を保有している寺は味方にも敵にもなる存在であった。

 

■宇佐山城跡

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両軍膠着状態のなか、十二月、将軍足利義昭が仲裁に入り和睦が成立したが、このとき戦死した森可成の後任として宇佐山城に入ったのが光秀であった。

宇佐山城(現在の滋賀県大津市南滋賀町)は、信長の本拠地・美濃と京を結ぶ最重要地点であり、浅井・朝倉・比叡山山門勢力に囲まれ,狙われていた最前線でもあった。この地を織田家中の者ではなく,足利家家臣の光秀に任せた点からみても、信長がいかに光秀を信頼し期待していたかがうかがえる。あるいは、信長にとってはすでに実質的な織田家重臣の一人という扱いであったとも指摘できる。いずれにしろ、金ヶ崎の戦い→宇佐山城入りの段階で、両属関係が決定づけられたと考えられる。

なお、両属とは現代の言葉で表すと「利益相反行為」の香りがプンプンと漂う。次回は、利益相反行為の帰結について説明する。

 

(後編へ続く)

 

〜今回の日本酒〜

滋賀県大津市・純米酒 浅茅生(あさぢお)