- 明智光秀の出自を直接記録している同時代の資料は見つかっていない。
そのため、光秀について記載された断片的な資料に基づく様々な説や、後世の資料(一部創作も含まれる)が複数存在する。
ここでは、通説とその他の説に分けてどのような説があるのかを見ていこう。
通説とその検証
■美濃守護の土岐氏一門・明智家説
明智軍記によれば光秀は、美濃守護の土岐(とき)氏の一族である明智家がルーツとされている。
明智軍記とは、明智光秀の活躍が描かれた江戸中期の軍記物のこと。大河ドラマ「麒麟がくる」で発表されている前半の登場人物を見る限り、この資料をベースに描かれていると推察される。
明智軍記は、光秀の時代から100年ほど経った資料で創作も含まれているため、史料価値は高くない。
しかし、他に有力な資料がないことから、明智光秀の物語を展開するにはこれをベースにせざるを得ないという側面があったと思われる。
明智軍記によると、光秀は1528年、明智光綱の子として、美濃国可児郡(岐阜県可児市)の明智(長山)城で生まれたとされる。
光秀の叔母(小見の方 おみのかた)は、斉藤道三に嫁ぎ、織田信長の正室となった濃姫を生んでいることから、信長と光秀は遠い親戚関係にあった。
明智家は、美濃国の初代守護だった土岐頼貞(よりさだ)の孫、頼重(よりしげ)を祖先とする土岐一門である。
守護職とは、鎌倉・室町時代の職名のことで、国の警備や治安維持に当たった。後に領国の支配者を意味するようになる。
現代の感覚では、地元の警察トップが武力を背景に地域全体の支配権を握るというイメージか。県知事の様な政治的な発言力を持ち始め、やがてその地域を仕切る様なものであろう。
土岐氏は美濃守護だったのみならず、足利幕府内においても実力者でもあった。また、土岐一門の明智氏も、足利将軍の「奉公衆」という高い家格の家柄であった。
奉公衆とは、将軍直臣として側で仕える武士のことで、光秀が明智家直系ならば、名門の出である、といえる。
同時代の資料・立入宗継記(天正~永禄年間)にも、明智光秀について「美濃国住人、ときの随分衆(随分と身分が高い武士)なり」と書かれており、美濃出身で土岐氏に関係があることをうかがわせる。
しかし、実際は土岐一族の直系ではなさそうである。
明智氏の当主は代々、土岐一族で使われていた「頼」の字を用いてきた(室町時代の有力武将・明智頼重(よりしげ)など)。
一方、「光」の字が使われているのは光秀の祖父の光継(みつつぐ)以降の世代だけであった。
「光」などの名前が付いた主君がいるのならあり得るが、特に理由もなく唐突に「光」の名前が登場し、引き継がれるのは、当時としては異例のことである。
このことから考えられるのは、本来の明智家系図に、後から光秀とその家族の部分を付け加えた可能性だ。
つまり、光秀が土岐氏一門の名族・明智家の直系とする説は、後世の創作なのかも知れない。
また、足利義輝に仕えていた人名を列記した「光源院殿御代当参衆并足軽以下衆覚」によると、室町幕府13代将軍・足利義輝とその弟15代将軍義昭の「足軽衆」として、「明智」の名が出てくる。この人物は明智光秀を指すと考えられる。
「足軽衆」は、戦国時代になってから設けられた役職であり、身分の低い者から将軍側近として抜擢された集団のこと。前述の「奉公衆」が名門一族で構成されているのとは対称的である。
実際、光秀は足利義昭に長く仕えていながら、自身が代々足利家に仕える家柄である、と主張した記録は残っていない。
このことから、光秀は先の明智本家ではなく、古くに分かれた分家末端の出身だった、あるいは、もしくは、足利家と縁がある土岐氏一門明智家を単に自称していたのかも知れない。
もっとも、光秀の正室は、美濃国土岐郡の妻木(つまき)を本拠地としていた妻木氏出身である。明智城と妻木城は近距離にあり、少なくとも光秀が美濃国南部出身の武士である可能性は高いと考えられる。
その他の説
■刀鍛冶・藤原冬広次男説
『若州観跡録』と言う書物によると、光秀は刀鍛冶である藤原冬広の次男として若狭国小浜で生まれた、とされている。
光秀は幼少期から刀鍛冶の職業を嫌い、兵法を学んだ後、「明智十兵衛」と名乗り、佐々木氏の使者として織田に赴いたときに信長に見出された。
■御門重兵衛(みかどじゅうべい)説
江戸時代の国学者・天野信景の随筆『塩尻』には、御門重兵衛と名乗る者が、使者として織田信長のもとへ赴いた際、信長に気に入られ、その後「明智」を名乗るようになったとされている。 御門重兵衛は、美濃国の明智出身。
■進士信周二男説
『大日本史料』(東京大学史料編纂所)のなかには「明智氏一族宮城家相伝系図書」という資料が収録されている。ここでは、光秀の出生地について、明智城の説のほか、もう一つの説が紹介されている。
この書物では、光秀は、進士信周(しんじのぶちか)と明智光綱(みつつな)の妹の次男として、美濃石津郡多羅の進士家の居城で生まれたとされている。
明智光綱が病気であり子どもが出来なかったため、信周と妹との子供を養子としてもらい受け、明智光秀として家督を継がせたことが記録されている。
『明智氏一族宮城家相伝系図書』によれば、明智家と進士家は相互に婚姻関係を結び、光秀の数代前からかなり密接な血縁関係があったことが記されている。
■進士藤延説
比較社会文化学博士・小林正信氏の『明智光秀の乱』は、前述の進士家に関わる資料を詳細検討とした結果、室町幕府奉公衆に名前が挙がっている「進士知法師(進士藤延しんじふじのぶ)」こそが、明智光秀であるとしている。
この説によれば、京が光秀生誕の地となる。
進士氏は包丁式進士流(料理に関する作法や調理法の一つ)を伝える家柄で、鎌倉時代より続く名門であり、御膳奉行、つまりは将軍の料理人を務めることでも知られている。
進士藤延は、13代将軍足利義輝の頃、父進士晴舎(しんじはるいえ)とともに永禄の変で討ち死にしたとされているが、小林説によれば、実際は生存しており、信長に仕えた際に明智光秀に改名を命じられた、とされている。
この進士藤延の妹である「小侍従(こじじゅう)」は、足利義輝の側室で、進士家は将軍家と親族関係にあったと考えられている。
光秀が謀反を起こした原因の一つに、徳川家康饗応を信長より命じられたが辞退し、信長より叱責を受けた事や、足利幕府再興説などもある。
前者については御膳奉行の家柄で作法に熟知している点を評価されたのに辞退したため非常に大きな叱責を受けた可能性(小林説)。
後者については、将軍家とも直接血縁関係にある出身でかつ、直臣の保守主義者·光秀が、革新的な信長に失望して自らが主導して幕府再興を図ろうとした、としてもおかしくない。
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今回複数の史料をあたりつつ諸説ある出自を紹介してきた。
同時代の断片的資料、後世の光秀に関する記述で共通点が多い点から、明智光秀は土岐氏一門明智家の傍流もしくはその関係者で、美濃国南部(明智周辺)で生まれた、とするのが妥当と思われる。