源平合戦の功労者・源義経は後白河法皇の策謀で頼朝に追討された

源平合戦で目覚ましい活躍をしながら、源頼朝によって奥州・平泉で追討された源義経の悲劇は、判官贔屓という言い回しとして残っています。 

後白河法皇から判官の官位をもらったから、三種の神器を取り戻すことができなかったから、源平合戦の活躍ぶりに嫉妬したから……源頼朝は源義経を追討したのではないか。諸説がありますが、すべては後白河法皇の策謀によるものだったという新説があります。 

今回はこの「判官贔屓」の真相に迫ります。 

 

顔を合わせたのは源頼朝・義経兄弟の源平合戦だった

源頼朝・義経の兄弟は平治の乱によって生き別れになっていました。源頼朝は十四歳で伊豆国に流され、源義経はわずか二歳で京都の鞍馬寺に預けられます。源頼朝は東国、源義経は西国で過ごしたのです。 

源平合戦の緒戦のひとつである富士川の戦いのとき、京都を出奔した源義経は奥州・平泉にいました。源義経はすぐさま源頼朝のもとに駆け付けます。この再会以来、鎌倉を本拠地とした源頼朝の指示のもと、源義経は源平合戦を戦っていきます。 

源頼朝・義経兄弟の父親は源義朝ですが、いわゆる「腹違い」の兄弟でした。これまで兄弟として接点がなかったこと、東国と西国、それぞれのバックグラウンドが違うことを考えると、富士川の戦いでの再会は感動的に表現されがちですが、意外にもあっさりしたものだったかもしれません。  

会うことさえできず追い詰められた源義経

源平合戦では一の谷の戦い・屋島の戦い・壇ノ浦の戦いに勝利しているのにも関わらず、源頼朝からはなにもありませんでした。鎌倉に立ち入ることさえ許されず、源頼朝に会うこともないまま、源義経は後白河法皇から源頼朝追討の命令書を受け取り、挙兵します。 

ですが、源頼朝追討とはならず、近畿を転々と潜伏、やがて奥州・平泉まで逃げ延びます。しばらくは平泉でかくまわれていましたが、頼りにしていた藤原秀衡が亡くなると状況が一変、藤原泰衡に襲撃され、弁慶ともども死亡しました。 

 源兄弟のすれ違いは後白河法皇の策略だった

判官とは検非違使の四等官・尉(じょう)のことをいいます。源平合戦での活躍ぶりに、後白河法皇が源義経に与えた役職です。左衛門少尉は五位の官位にあたります。後白河法皇からも源義経からも源頼朝には知らせがありませんでした。 

ですが、これは後白河法皇による源兄弟を仲違いさせるためのものだったのです。後白河法皇の目的は、源頼朝を平清盛のようにならないよう、つまり源頼朝ひとりに天皇家を上回る権力が集まらないようにすること。源頼朝と義経を対峙させることで、源頼朝の権力独占を避けようとしていたのです。 

歴代天皇でも類まれなる政治手腕を持っていた後白河法皇であれば、このくらいの人心掌握術はあってしかるべきものではないでしょうか。 

まとめ

源平合戦の功労者であるはずの源義経は後白河法皇の策略によって源頼朝と仲違いさせられ、さらには追討されたという新説は、後白河法皇の目的からみると説得力があります。