平城京の遷都は「吉兆の地」であったためだといわれています。天武天皇・持統天皇によって造営された藤原京が機能したのはたった16年でした。ですが、近年になって藤原京遷都は政治的な思惑によるものだと指摘されています。平城京遷都をおこなった元明天皇、そして、権力者となった藤原不比等。平城京遷都の裏側で一体何があったのか。今回は、遷都からみえた藤原不比等の野心をご紹介します。
(参照:平城旧跡歴史公園)
平城京と藤原京
元明天皇は藤原京から平城京に遷都しました。710年のことです。平城京のモデルは中国の大都市・長安。総面積約2,500ヘクタールという大規模な都市です。では、元明天皇はなぜ遷都したのか。それは平城京の立地にあります。平城は吉兆の地だったからだといわれているのです。
ここで、藤原京についてもみてみましょう。藤原京は日本初の本格的な「都」です。天武天皇によって打ち出されたプロジェクトでした。しかし、天武天皇は平城京の完成を待たずして崩御します。遷都は皇后の持統天皇によって実現しました。
藤原京遷都は694年、現在わかっている限りでも、平城京よりさらに大規模な都市です。持統天皇によって遷都してから、文武天皇、元明天皇の都として機能します。しかし、平城京遷都まではわずか16年でした。
奈良の都(藤原京・平城京)は政治の中心であり、そして首都でもありました。都の中心には行政機関があり、敷地内には政府関係者だけでなく、たくさんの「都民」が生活していました。藤原京から平城京に遷都するということは、平城京の造営はもちろんのこと、大規模な民族移動がともないます。想像以上に遷都は大掛かりなことです。
ここで疑問となるのが、平城京が吉兆の地であるとはいえ、大規模な藤原京をたった16年で破棄するだろうかということです。他にも遷都せざるを得ない理由があったのではないでしょうか。
藤原不比等の台頭
藤原京で存在感をみせていたのが藤原不比等です。文武天皇に自分の娘(宮子)を嫁がせ、外戚関係になっています。文武天皇となる軽皇子を擁立したところから、政治家人生がはじまったといっていいでしょう。また、藤原不比等には実力派の法律学者という側面があります。大宝律令の制定にも貢献しているのです。
文武天皇と宮子のあいだに誕生したのが首皇子です。言うまでもなく、藤原不比等は首皇子を次代の天皇にしようとします。ですが、程なくして文武天皇が崩御するのです。軽皇子はまだ6歳、即位はできません。そこで、擁立したのが元明天皇です。元明天皇は藤原不比等の傀儡の女帝でした。平城京遷都も実際は元明天皇ではなく、藤原不比等の主導でおこなわれたのです。
元明天皇は藤原京に心残りがあったともいわれており、藤原不比等に対して天皇でありながらまったく発言力がなかったことがうかがえます。
平城京にみる藤原不比等の野望
平城京遷都にどうして藤原不比等がこだわったのでしょうか。天皇として軽皇子が即位できれば、藤原京でも平城京でもいいというわけではなかったのです。
藤原不比等の平城京遷都の目的はふたつ。まず、元明天皇ではなく藤原不比等によって、平城京を造営、そして遷都することによって、藤原不比等の権力を誇示すること。そしてもうひとつ、藤原不比等によって遷都された平城京で、天皇として軽皇子が即位することです。これこそが藤原不比等の野望でした。
ですが、藤原不比等は平城京で軽皇子が聖武天皇として即位するのを待たず、この世を去りました。
まとめ
藤原京から平城京への遷都には、元明天皇の意思ではなく、藤原不比等の野望が色濃く繁栄されていました。藤原京、平城京、それぞれの発掘調査に発展があれば、さらなる新事実が期待できるかもしれません。