ついに、日本史サイトは明智光秀のクライマックス、本能寺の変の謎に迫る。
1582年(天正10年)6月2日未明、天下布武へ向けて突き進んできた織田信長は京・本能寺において、明智光秀率いる13,000の軍勢に急襲され、49年の生涯を閉じた。
光秀はなぜ信長を裏切ったのか。本能寺の変は光秀の独断だったのか。あるいは、光秀を動かした黒幕・主犯・共犯がいたのだとすれば、それは一体、誰だったのか。本能寺の変の真相は、現代でも日本史最大の謎とされている。
本能寺の変が起こった真相、動機を様々な角度から分析、その諸説を公開し、現時点で最有力な視点を解き明かす。
■徳川家康黒幕説
徳川家康像(狩野探幽画、大阪城天守閣蔵)
出所 Wikipedia
信長の家康暗殺計画を契機とし家康が光秀を決起へと導いたとする説。
この説によれば、信長は天下統一後を見据え、盟友・徳川家康の暗殺を企図。光秀に、京滞在中の家康暗殺を命じたとする。
情勢を察知した家康は、かねてより嫡男信康を死へ導いた信長に対し、怨恨や不信感を密かに抱いたこともあり、光秀を説得。決起を促し信長抹殺を実行させた可能性はある。
光秀も、宿老(古参の家老)をも躊躇なく下野させる信長を目の当たりし、羽柴秀吉との出世競争で劣勢に立たされていたことから、自らの先行きを不安視しこの企てに乗ったのか。実際、光秀が信長に家康殺害を命じられていた可能性を示唆する資料がある。
明智軍先鋒に属していた本城惣右衛門(ほんじよそうえもん)は、本能寺の変当時を振り返った「本城惣右衛門覚書」において、「信長様に腹させ申す事は、夢とも知り申さず」と記しており、「家康様とばかり存じ候」とし、徳川家康が攻撃対象であったと認識していたことを記している。
また、イエズス会宣教師ルイス・フロイスの「日本史」にも、兵士たちは(中略)三河の国主(徳川家康)を殺すつもりであると考えていた」と書いている。
この説では、山崎の戦いを生き延びた光秀が僧「天海」として家康に仕え、共同して天下統一を果たした、とする「光秀天海説」へとつながる。
これを前提とすれば、本能寺の変勃発時、家臣団が切腹しようとする家康を説得し、伊賀国の難所を経て三河国へ帰還したといういわゆる「伊賀越え」は、真実を隠すためのフェイクニュースだったことになろう。
ただし、光秀と家康が共謀していたことを直接的に示す史料は現在まで発見されていない。
■足利義昭黒幕説
足利義昭坐像(等持院霊光殿安置)
出所 Wikipedia
15代237年続いた足利幕府を信長によって滅ぼされた足利義昭黒幕説
義昭が主従関係にあった光秀に命じ、あるいは光秀が旧主義昭の幕府再興のため、信長を討ち取ったとするのが義昭黒幕説である。
義昭は信長から京を追放になった後、西国の有力大名・毛利家の庇護の下、備後国鞆に拠点を移した後も信長打倒の策謀を続けていたことが知られている。
義昭は1570年代、自ら主導のもと浅井、朝倉、武田、上杉、石山本願寺,三好三人衆(三好一族を支えた三人衆で、三好長逸、三好宗渭・岩成友通のこと)を説得し、「信長包囲網」の大勢力を構築した外交の天才。
幕府再興に向けた信長への敵愾心は人一倍強かったと考えられる。また、「三職任官(推認)」問題は義昭の焦燥感を一層高めたに違いない。ちなみに「三職任官問題」とは、信長が北条氏などを実質的に従属させて関東を平定したと朝廷が考えた時点で、信長が征夷大将軍、関白、太政大臣のいずれかに任官することが、信長もしくは朝廷から提案された。この提案が朝廷からなされたのか信長からなされたのかをめぐる問題が「三職任官問題」である。
なお、「晴豊日記」によれば、1582年4月21日、正親町天皇が信長に対し、征夷大将軍・関白・太政大臣のいずれかに推任しようという打診をした、と記されている。
幕府再興を目指す義昭にとり、この事実が信長暗殺の直接的な引き金となったとされる。
この時、京滞在中だった信長の周囲は無防備であり、有力武将は義昭旧臣の光秀のみであった。義昭にとって千載一遇のチャンスである。
通説のとおり光秀が伝統、格式を重んじる保守的思考を持った人物であったなら、秩序の破壊者・革新者の信長に従い続けることへ限界を感じたとしてもおかしくない。
いつか信長を打倒し、再び義昭を京に迎え入れ、室町幕府を再興する意思を持っていた、あるいは、そう義昭に依頼されたとしても違和感がない。
この説の有力な根拠とされているのが、2017年9月に発見された光秀の書状である。
それは、光秀が本能寺の変後、紀伊雑賀衆で反信長派だった土橋重治に宛てた書状で、「自分は義昭と通じている」との内容の密書である。
重治はこれ以前、すでに義昭と上洛支援の約束をしており、光秀は、自分も同じ考えである旨を伝える内容であった。
しかし、本サイトで述べたように、光秀は自らの飛躍のため、義昭と信長の器量を天秤にかけ、義昭との関係を断ち切った経緯がある。その光秀が義昭を奉じて幕府再興を目指すとは考えにくい。
また、先の土橋重治宛書状の日付は本能寺の変から10日経った6月12日頃であり、信長暗殺後のものである。
当時、光秀は秀吉との決戦を控えており、自軍の勢力結集に奔走しているときであった。
これを踏まえれば、「幕府再興」云々は味方集めの方便だとの解釈も可能である。変前の日付だったら決定的な証拠となっていたと思われるが、、、現在までも、本能寺前において両者が信長暗殺を共同で企図した証拠は見つかっていない。