鎌倉幕府初代将軍・源頼朝の最期はあまり知られていないのではないでしょうか。現代でも人気がある源義経、あるいは二・三代目将軍の源頼家・実朝であれば、非業の死ゆえに認知されているかもしれません。あれだけの功績を残した源頼朝ですが、あっけなく落馬によって死を迎えているのです。ですが、この落馬説の内容も文献によって諸説あることがわかっています。落馬した源頼朝の死因は何だったのか、ここで検証していきます。
鎌倉幕府初代将軍・源頼朝の生涯
鎌倉幕府初代将軍・源頼朝は源氏の頭領・源義朝の嫡子として誕生します。由緒正しい熱田神宮の大宮司・藤原季則の娘、由良御前が母親です。藤原南家の血を引く「源氏の御曹司」として知られていました。
初陣の平治の乱ではどうにか落ち延びることができましたが、すでに平清盛によって源義朝は討ち取られていたのです。その後は流刑となりました。三種の神器・草薙剣を祀る熱田神宮ゆかりであったことも、流刑で済まされた要因であったといわれます。本来であれば、処刑されていたでしょう。
源平合戦にいたるまで、二十年に及ぶ謹慎生活を送りました。以仁王の挙兵に応じ、鎌倉で立ち上がります。関東武士をまとめて、平家勢力と闘いました。
源平合戦後、征夷大将軍となった源頼朝は鎌倉幕府を設置して武家政権を実現します。しかし、相模川の橋供養からの帰路、落馬をして17日後に息を引き取りました。この橋供養は妻・北条政子の妹のためのものでした。
落馬からどうして死につながったのか…死因は?
落馬をした原因、落馬をしてから死にいたった原因については、文献によって様々な記載がみられます。その死因をまとめます。
脳卒中で落馬した
現在でいうところの、運転中に脳卒中になり事故を起こしてしまったというもの。状況からみて脳卒中だったのではと疑われるのです。
落馬による尿崩症
体内の水分を体外に排出して慢性的な水分不足を引き起こす尿崩症。現代では治療法がありますが、当時は死にいたる病でした。落馬によって中枢神経を損傷したことで、尿崩症になたのではともいわれています。
糖尿病で身体機能が低下して落馬した
糖尿病の症状によって身体機能が低下していたために落馬したのでは……という記載もみられます。実際、亡くなる10年前には病気を治すためのお経を読ませています。糖尿病が10年間で進行していたのではないでしょうか。
落馬時の負傷
落馬したときの打ちどころがよくなく、17日間生死を彷徨ったのかもしれませんし、しばらくして後遺症が現れ17日後に亡くなったのかもしれません。
落馬して溺死
落馬したのは相模川の河口あたりといわれています。落馬したとき相模川に落ち、溺死した可能性もあり得るでしょう。
吾妻鏡からはっきりわからないからミステリー
吾妻鏡は鎌倉幕府の正史にあたりますが、源頼朝の死については、記載があるものの曖昧な部分があること、文献によって死因が様々であることから、鎌倉時代のミステリーだともわれています。
北条氏による暗殺説がありますが、それぞれの文献で落馬したことはわかるため、あまり説得力がないといえそうです。妻・北条政子が浮気をこらしめようとして誤って殺害してしまった……などという説もありますが、証拠はどこにもありません。
まとめ
初代鎌倉幕府将軍・源頼朝はその活躍ぶりとは裏腹に落馬で亡くなっていました。近年になり、新しい発見が続く源頼朝。あの有名な肖像画も実際は足利尊氏の弟・直義であったとわかっています。装飾品の類も、鎌倉時代のものではなく室町時代初期のものであるという指摘が、実際のところ以前からあったようです。これからの歴史研究によって、源頼朝の死の真相もみえてくるかもしれません。