邪馬台国畿内説は纒向遺跡の発掘調査で有力に! 見えてきたヤマト王権とのつながり

邪馬台国は近畿にあったのか、それとも九州にあったのかという議論には落としどころがないのが現状です。江戸時代から現在にいたるまで、古代史のロマンともいえますが、それぞれの説に決め手がありませんでした。ここに一石を投じたのが、2014年に発掘されたの存在です。邪馬台国畿内説、そしてその後の大和朝廷へのつながりがみえてきたのです。ここでは、邪馬台国が畿内にあったことを前提に、大和朝廷との関係を整理していきます。 

 邪馬台国畿内説とは

邪馬台国は2~3世紀頃、日本史の区分では弥生時代後期、日本国内最大の女王がおさめた国です。当時、日本各地では豪族によって建てられた小国が小競り合いを繰り返していました。連合国家としてたばねたのが邪馬台国の女王・卑弥呼です。中国では三国志の頃。魏志倭人伝として当時の記録が残されています。ですが、結局のところ邪馬台国がどこにあったのかはっきりとしません。現在では、畿内説、そして九州説があります。畿内とは現在の大阪府・京都府・兵庫県の一部、そして奈良県全域にあたります。邪馬台国畿内説は、奈良・平安時代における政治の中心地に、すでに古代王朝があったことを意味します。 

邪馬台国畿内説の決定打・纒向遺跡の発掘

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 邪馬台国畿内説を後押ししたのは、2014年に発掘された纒向遺跡の存在に他なりません。現在の奈良県桜井市で発掘されました。ここには箸墓古墳をはじめ、複数の古墳が見つかっています。どうして纒向遺跡が畿内説の根拠になるのか。まずあげられるのは、調査の結果から、当時一般的であった集落ではなく、ひとつの都市だったとみられることです。出土した土器の種類から、地方の人間が数多くいたこともうかがえます。現在でいうところの首都ではないでしょうか。また、纒向遺跡の放射性炭素年代測定によって2~3世紀頃のものだとわかっていること、箸墓古墳が魏志倭人伝に記載されている前方後円墳とほぼ一致することも指摘されています。 

邪馬台国の消滅とヤマト王権のはじまり 

出典:弥生ミュージアム

 邪馬台国は女王・卑弥呼没後に混乱、古代史の表舞台から消え去ります。魏志倭人伝に邪馬台国の記録があった2~3世紀、そして資料上は空白となる1世紀をはさんで4世紀中頃にはヤマト王権が成立していることを、まずはおさえておきましょう。畿内説であれば、そこに都市基盤があったことになります。邪馬台国と入れ替わるように、都市基盤を引き継ぎながらヤマト王権が誕生、日本国内の最大勢力になったというのは、無理のない憶測ではないでしょうか。 

まとめ

魏志倭人伝をはじめとした限られた情報しかないからこそ、遺跡の発掘調査に今後の進展が期待される邪馬台国の謎。纒向遺跡の発掘により、畿内説が説得力を持ち始めています。さらに発掘調査が進められれば、これという決め手がみつかる……かもしれません。