蘇我氏ってどこの馬の骨? 実は最古の豪族・葛城氏とつながっていたか

大化の改新で滅ぼされた蘇我氏は、赤穂浪士でいうところの吉良上野介のような、討ち取られてもしかたない、そんな悪役ポストではないでしょうか。6世紀のはじめ、突如として歴史の表舞台に登場した蘇我氏。天皇家の外戚になった蘇我稲目から馬子、蝦夷、入鹿まで繁栄しました。いったい、蘇我氏とは何者なのでしょうか。実は、最古の豪族といわれる葛城氏とつながっているようなのです。今回は蘇我氏と葛城氏のつながりを深掘りします。

(出典:葛城市) 

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 大化の改新で滅ぼされた蘇我氏とは?

大化の改新で滅ぼされた蘇我氏は6世紀初期から7世紀中頃まで活躍した豪族一族です。天皇家に蘇我稲目が娘を嫁がせたことをきっかけに、外戚として権力製図を拡大していきました。 

しかし、天皇家の外戚だったからというわけではなく、蘇我氏には政治家としての実力がありました。蘇我稲目は宣化天皇の大臣として政治に関わりました。渡来人と関係を結び、国内に最先端技術をもたらしたのです。 

その息子である蘇我馬子が豪族・物部氏を滅ぼしたことで、蘇我氏の権力は確かなものになりました。この物部氏は仏教受容に反対していたことから、仏教普及のきっかけになったともいえるでしょう。 

推古天皇のもと、摂政の聖徳太子(厩戸王)とともに、冠位十二階、十七条の憲法などの政策をおこないました。 

その後、蝦夷・入鹿親子が大臣のポストを継ぎますが、大化の改新で滅ぼされます。乙巳の変ともいわれるこの出来事をきっかけに、国内では中央集権化が進みました。 

蘇我氏と渡来人の関係

 政治家としての蘇我氏は渡来人との関係を説明しないわけにはいきません。宣化天皇の大臣であった蘇我稲目、それから推古天皇の大臣であった蘇我馬子は、複数の渡来氏族を従えており、最先端の文化・技術を政治に取り入れました。現代の言葉にあてはめるとグローバル化ともいえるかもしれません。 

実際、蘇我稲目は欽明天皇にも国際的な観点からアドバイスをおこなっていることがわかっています。欽明天皇が仏教を受容したきっかけにもなったのです。 

当時としては国際化を見据えた内容であった冠位十二階、十七条の憲法、さらには遣隋使の派遣にも蘇我馬子の知識が役立ったことはいうまでもないでしょう。 

渡来人との密接な関係から、蘇我氏=渡来人説がありましたが、現在では否定されつつあります。しかし、否定しきれないのは、ひとえに蘇我氏の素性がはっきりしないところにあります。 

 5世紀末に姿を消した葛城氏と6世紀に現れた蘇我氏の関係

(出典:奈良県)  

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 古代最古の豪族といわれているのが葛城氏です。当時の天皇家の外戚として豪族としての地位を確かなものにしました。 

その根拠地は大和盆地です。大和盆地西側の葛城地域にあたります。そして南側にあるのが蘇我氏の根拠地である明日香地域です。 

根拠地を大和盆地とする葛城氏と蘇我氏には、さらに共通点があります。それは始祖を同じくするということ。それぞれ武内宿禰(たけしうちのすくね)を始祖としているのです。景行天皇から仁徳天皇までつかえた伝説の忠臣といわれています。 

ここからみえてくるのは、5世紀末に姿を消した葛城氏の権力基盤を蘇我氏が引き継ぎ、6世紀に渡来人による最先端技術をもってして、さらに勢力拡大に成功したという筋書きです。大和盆地の葛城地域には、葛城氏の頃から渡来人が住むようになっていたことが、さらに説得力をもたらしています。つまり、豪族としての蘇我氏は葛城氏の権力傾斜だったのではないかといえるのです。 

まとめ 

大化の改新で滅ぼされたことがクローズアップされる蘇我氏ですが、蘇我稲目・馬子の親子は、それぞれ渡来人によってもたらされた最先端技術で古代日本の国際化に尽力しました。その素性がわからないことから渡来人説もありましたが、権力基盤を有力豪族であった葛城氏から引き継いだものだと仮定すれば納得できるところがあります。 

 

参考サイト 

葛城市公式サイト(奈良県) 

http://www.city.katsuragi.nara.jp/index.cfm/1,html