聖徳太子について昭和後期から平成前期にかけての義務教育では代々的に取り上げていました。聖徳太子=高額紙幣であったため、それだけの偉業を成し遂げたのだと認識されていたはずです。ですが平成になってから紙幣から消え去ったばかりでなく、ついには教科書からも消え去ろうとしています。聖徳太子の非実在説が認められようとしているのです。今回は聖徳太子の非実在説について、どうしてそうなってしまったのか、その原因まで追究します。
義務教育で教わった聖徳太子をおさらい
昭和後期から平成前期にかけて、義務教育ではどのように聖徳太子を教わったのか、まずはおさらいしましょう。
推古天皇(在位:592~628年)のもとで政治手腕を発揮、冠位十二階、十七条の憲法を制定、さらに遣隋使を派遣、仏教の普及にも積極的に取り組み、法隆寺の建立にも尽力しました。
冠位十二階はわかりやすくいうと実力主義を目的としたものです。これまでの世襲制度を否定しました。こうして選りすぐられた官僚たちの規範ともいえるべきものになったのが十七条の憲法です。また、この十七条の憲法ではじめて倭国のトップは天皇であることが明記されています。
これだけのプロジェクトをやってのけたことで、聖徳太子とまで呼びならわされるようになりました。聖徳太子ではなく厩戸王(うまやとおう)というのが本来の名前です。
聖徳太子非実在説とは?
聖徳太子の非実在説は「そもそも、これだけの功績がひとりの人間によるものなんてありえない」というところからはじまっています。そして、その業績をつぶさに調査したところ、冠位十二階にしろ、十七条の憲法にしろ、聖徳太子が関与したというはっきりとした証拠がいっさいないことがわかってきたのです。
推古天皇の右腕だったのですから、ノータッチということはないにしても、聖徳太子が中心になっておこなっていたのかは疑わしいところです。
遣隋使にしても、それ以前に派遣されていたことがわかっています。小野妹子の派遣がはじめてというわけではありません。現在で取り上げているほど、遣隋使が重要なものではなかったとも指摘されています。この遣隋使にしても、現在認識されているように、聖徳太子自らが小野妹子を派遣したという証拠はいっさいありません。
また、推古天皇のもと仏教普及を掲げていたことに違いはないはずですが、法隆寺の建立をはじめとした業績も聖徳太子がおこなったもとだとは言い切れません。
推古天皇の右腕であった厩戸王がいたことは事実ではあるものの、聖徳太子といわれるほどの功績を成し遂げたとはいえないだろう。これこそが聖徳太子非存在説です。
聖徳太子を過大評価した天武天皇の意図
聖徳太子を過大評価したのは壬申の乱で皇位を継承した天武天皇です。即位後、律令国家を目指して政治をおこないました。そのために必要だったのが集権化です。そこで利用されたのが50年前に推古天皇のもとで政治に関与していた厩戸王です。
聖徳太子の称号を与え、様々な業績を取り上げ、そして過大評価することによって、天皇家による統治を正当化しようとしたのです。
まとめ
聖徳太子として過大評価された厩戸王は実在していたものの、それだけの業績を残したとは言い切れないことから、聖徳太子の存在そのものが否定されつつあります。ですが、すべて厩戸王による業績であることが否定されたわけでもありません。何かしらの根拠がみつかったとしたら……それもまた日本史の謎のひとつではないでしょうか。