承久の乱の後鳥羽上皇の敗因とは? 朝敵・鎌倉幕府が勝利した転換期

鎌倉幕府が朝廷の支配圏であった西国に進出するきっかけとなったのが承久の乱です。鎌倉幕府を滅ぼすために立ち上がった後鳥羽上皇。そして朝敵となった鎌倉幕府。承久の乱は京都までの緒戦で鎌倉幕府側が連勝、最終決戦の地となった宇治川では激しいぶつかり合いとなりましたが、結果的に朝敵であった鎌倉幕府が勝利しました。  

承久の乱で敗北した後鳥羽上皇ですが、政治能力はもちろん、文武両道の有能な天皇でした。どうして後鳥羽上皇が負けたのか、その敗因を探ります。 

どうして後鳥羽上皇は鎌倉幕府を倒そうとしたのか

朝廷にも資金源がありました。それが荘園からの徴税です。しかし、鎌倉幕府がはじまったことで、貴重な荘園からの収入が途絶えるようになったのです。これが後鳥羽上皇が鎌倉幕府を倒そうとしたこと大きな理由としてあげられます。 

では、どうして朝廷は徴税できなくなったのでしょうか。ここで、日本史の教科書にも取り上げられていた「地頭」について振り返ります。守護・地頭のセットで覚えたのではないでしょうか。地頭とは各地で地方政治、徴税などをおこなう鎌倉幕府から派遣される役人のことです。この地頭が徴税をおこなうことで、本来朝廷の収入になるものだったのが、鎌倉幕府のものになったのです。 

これは朝廷権力の失墜を意味しています。朝廷の収入源が途絶えたことはもちろんですが、朝廷権力の回復のためにも、鎌倉幕府は滅ぼさなければならないと後鳥羽上皇が立ち上がったのです。 

承久の乱のために後鳥羽上皇がおこなったこと

鎌倉幕府第三代将軍・源実朝は執権・北条義時の傀儡ではありましたが、朝廷との関係を重要視し、右大臣にまで上り詰めています。後鳥羽状況も突然武力衝突しようとしたわけではありません。源実朝を取り込み、朝廷の鎌倉幕府に対する支配力を強めようとしていました。 

この源実朝が暗殺されたことをきっかけに、後鳥羽上皇は武力衝突を踏み切ります。 

では、歴代天皇屈指の政治手腕を誇っていた後鳥羽上皇は、鎌倉幕府を倒すためにどのような行動をしたのでしょうか。 

まず、院宣によって鎌倉幕府の執権・北条義時が朝敵であることを知らしめました。つまり、鎌倉幕府そのものが朝敵になったということです。鎌倉幕府との武力衝突に反対的だった土御門天皇を退位させています。 

そして後鳥羽上皇の私兵ともいえる西面武士を設置、朝廷側の兵力増強をおこないました。流鏑馬を口実に西国を中心とした諸国から兵も集めています。 

こうして後鳥羽上皇は西国の兵力をまとめあげ、京都で鎌倉幕府勢力を迎えます……が結果的に惨敗を期すのです。 

後鳥羽上皇の敗因

鎌倉幕府の御家人たちは、朝敵となったことを知ると、さすがに動揺しました。そんな御家人たちを一括したのが、源頼朝の妻・北条政子です。 

「頼朝様が朝敵を倒し、鎌倉幕府をはじめてから、御家人たちの生活はこれまでと比べものにならないくらいよいものになったでしょう。この山よりも高く海よりも深い御恩を忘れてはなりません。もし、それでも朝廷につくのであれば、この私を殺してから行きなさい」 

このような演説をおこなったと吾妻鏡にはあります。尼将軍・北条政子の演説により、鎌倉幕府側の士気は最高潮に達しました。 

鎌倉幕府側と比較すると、後鳥羽上皇側は、余裕を持って構えていたこと、また西国から招集した兵たちが士気に欠けていたことで、後鳥羽上皇自らが武装して指揮するものの、宇治川の最終防衛ラインを突破されてしまいます。 

まとめ

承久の乱後、鎌倉幕府の影響力は西国にまで及ぶようになりました。後鳥羽上皇が目指した朝廷の復権は、承久の乱によって潰えたのです。鎌倉幕府開府から30年あまり、いよいよ鎌倉幕府が朝廷から離れ、独立した政治機関となるきっかけにもなったといえるでしょう。