唐招提寺の鑑真和上が命懸けで渡来したのはなぜ? 袈裟のメッセージから読み解く

(画像:唐招提寺) 

 唐招提寺とは「唐(当時の中国のこと)から招いた鑑真和上による私設寺院」というのが由来になっているとも言われています。中国から命懸けで渡来した鑑真和上。仏教布教に貢献したことで知られています。どうして鑑真和上は命懸け、それこそ視力を失ってまで、あきらめずに渡航したのでしょうか。鑑真和上を突き動かしたものはなんだったのか。今回は、鑑真和上の人生を振り返りながら、渡来のきっかけのひとつとなった袈裟のメッセージについて読み解いていきたいと思います。 

 

鑑真和上渡航の背景

鑑真和上が来日した飛鳥時代、聖武天皇は法隆寺をはじめとした寺院を次々と建立、仏教の布教に取り組んでいました。しかし、私度僧という無認可の僧侶の増加が社会問題となっていたのです。僧侶になるためには「授戒」をおこなわなければなりません。仏教の戒律について、僧侶から教えられることを授戒といいます。当時、日本国内では僧侶は免税されていました。免税のために自称・僧侶が増えていたのです。そのため、日本国内では僧侶の授戒システムの整備が急務でした。 

 

きっかけは栄叡・普照との出会い

 

(画像:興福寺) 

興福寺の僧侶である栄叡・普照が、中国大陸で僧侶のスカウトに乗り出します。そして、江南第一の大師として知られる鑑真和上に出会いました。鑑真和上は揚州・大明寺の高僧として数えきれないほど授戒をおこなってきました。また、高僧という地位でありながら、社会的弱者の救済もおこなっていたといわれています。 

栄叡・普照のために僧侶を紹介しようとしますが、適任者がいなかったため、だったら自分が行くしかないと、渡航を決意することになります。ですが、何度も渡航に失敗、五回目では失明してしまいます。それでもあきらめず、遣唐使船での渡航に成功します。 

余談ですが、鑑真和上がこれだけ渡航に失敗したのは、妨害工作があったためです。中国でも鑑真和上は必要とされていたのです。 

栄叡・普照との出会いから十年、すでに栄叡は亡くなっていました。来日後、日本史の教科書に取り上げられているとおり、日本国内の仏教布教に貢献しています。 

 もうひとつのきっかけ 長屋王から送られた袈裟とは

仏教に帰依していた長屋王(天武天皇の孫)は中国に1千枚の袈裟を贈っています。この袈裟には「山川異域 風月同天 寄諸仏子 共結来縁」と刺繍されています。国が違えども天は同じであるのだから、僧侶に袈裟を寄進して縁を結ぼうではないかという意味です。鑑真和上にもこの袈裟が贈られていたらしく、少なからず栄叡・普照のスカウトに頷くきっかけになっていたようです。 

 

まとめ

鑑真和上を突き動かしたのは、教科書では掘り下げられることがありませんが、長屋王が寄進した袈裟、日本の僧侶の熱意と説得によるものでした。いくつかの偶然がなければ、鑑真和上は来日することなく、日本の仏教文化、さらには奈良時代以降の歴史も大きく変わっていたかもしれません。